2009年06月29日

6世紀から7世紀ごろ中央アジアに存在した遊牧民族と

突厥(とっけつ、とっくつ)は、6世紀から7世紀ごろ中央アジアに存在した遊牧民族と、それが中枢権力を構成して起こした中央ユーラシアに覇権をうちたてた遊牧国家名。アルタイ山脈の麓に住んでいた。

突厥は「テュルク」(トルコ)を漢字表記したものと考えられ、その中枢権力を構成した集団はまさにテュルク系であると考えられている。また、その可汗の一族の属した氏族は阿史那氏と呼ばれる。当初は柔然に従属して、アルタイ山脈の西南で鉄の鋳造や金の採取の業をもって仕えていた。6世紀中頃に強勢となり、同じテュルク系の鉄勒(これも「テュルク」の漢字表記)を服属させ、その力で柔然の支配を打ち破り独立した。
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その後は、モンゴル高原に領土を広げ、サーサーン朝と結んでエフタルを滅ぼした。

東は中国の北方まで、西はカスピ海にまでのびる大勢力となった突厥であったが、遊牧民諸集団の連合体という遊牧国家の宿命ゆえ、国内では各遊牧集団を指導する、小可汗やベク、シャドの称号を持つ有力者が乱立しており、隋の離間策や強大になった国家運営を行える内治制度の不備などの理由から内部での対立が激しくなって東西に分裂した。

その後、東突厥の啓民可汗(突利可汗)は、隋より安義公主を降嫁され、隋の後ろ盾で突厥の大可汗となったがこの時期に鉄勒の独立運動が激しくなり、突厥全土には影響力がおよばなかった。

隋の支配が乱れると、啓民可汗の子の始畢可汗は勇躍し、隋に侵入して朝貢を停止した。また鉄勒を再び強い支配下におさめ、隋を滅ぼした唐を圧迫した。627年には唐に侵攻し、当時の唐は玄武門の変の直後にもあたり、国境警備の兵は殺された李建成の指揮下にあったため動揺しており、突厥は簡単に長安のすぐ近く渭水まで迫った。この時、『旧唐書』によれば当時の唐皇帝の太宗に協約違反を責められてすぐに帰ったと記されているが、これは非常に疑わしい。実際は突厥に有利な和約を結んで帰ったというところだろうと思われる。

2009年06月10日

抗うつ薬(こううつやく)とは、主としてうつ症状を

抗うつ薬(こううつやく)とは、主としてうつ症状を緩和する薬剤である。うつ病、うつ状態、パニック障害、強迫性障害、摂食障害、ある種の不眠、慢性疼痛などに投与される。

うつ病の治療には精神療法が必要であり、必ず病気の説明や見通しを説明する必要がある。抗うつ薬におけるうつ病改善率は80%程度と言われている[誰が?]。抗うつ効果としてはどの薬物も大差はないと考えられている。適切に治療を行っても30%程度で反応せず難治性となることも知られている。抗うつ薬は副作用が生じるなどの理由がない限り徐々に増やし、最大容量まで用いるのが一般的である。殆どの抗うつ薬は2?3週投与を行わなければ効果が発現しないといわれている[誰が?]。そのため即効性のある抗不安薬を併用する場合が多いのだが抗不安薬は単独では抗うつ作用がないとされている。また抗うつ薬の併用も一般的には意味がないとされている。

三環系抗うつ薬とほぼ同時期に抗うつ薬として使われ始めたが副作用が強かったため扱いにくく、現在は抗うつ薬としてはほとんど使われない。パーキンソン病治療薬として専ら用いられている。

もっとも古い抗うつ薬で1950年代に登場した。セロトニンやノルアドレナリンの再取り込みの阻害が抗うつ作用にかかわると考えられている。第1世代としては塩酸アミトリプチリン (トリプタノール、ラントロン)、塩酸イミプラミン (イミドール、トフラニール)、塩酸クロミプラミン (アナフラニール)、マレイン酸トリミプラミン (スルモンチール)、塩酸ノルトリプチリン(ノリトレン)。第2世代としてはアモキサピン (アモキサン)、塩酸ドスレピン (プロチアデン)、塩酸ロフェプラミン (アンプリット)が知られている。第3世代としての選択的セロトニン再取り込み阻害薬が登場してからは軽症、中等症のうつ病の第一選択からは外れたが2008年現在も使われている薬である。その理由としては抗コリン作用をはじめとした多くの副作用が存在するがうつ病の改善率が70?80%と非常に高いことが理由にあげられる。TCAの抗うつ作用はほとんど差がないと言われているが[誰が?]、患者によって特異的に有効なTCAが存在するのも事実である。抗コリン作用が軽快している第二世代の薬物から使用し、副作用に合わせて変えていくのが一般的である。特徴としては三級アミンは二級アミンと比べると、鎮静作用、抗コリン作用が強く、起立性低血圧も起こしやすい。鎮静と体重増加の作用はヒスタミンH1受容体に対する親和性と相関している。起立性低血圧はアドレナリンα1受容体との親和性に相関しているといったところである。またTCAは内服中断後、1週間は体内にとどまると考えられている。危険な副作用としてはキニジン様作用といわれる心臓障害がある。
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アミトリプチリン (トリプタノール、ラントロン)
抗コリン作用、鎮静作用が最も強いTCAである。若年者で入眠障害がある患者で好まれる傾向がある。就寝前に多く飲ませることが多い。

イミプラミン (イミドール、トフラニール)
最初に作られたTCAである。アミトリプチリン よりも抗コリン作用、鎮静作用が弱いがノルトリプチリンよりは強い。起立性低血圧も比較的少ない。パニック障害に効果があることもある。

クロミプラミン (アナフラニール)
セロトニンの再取り込み阻害作用が強い。強迫性障害に有効であるといわれている[誰が?]。痙攣がおこる頻度が他のTCAよりも強いため、抗けいれん作用の強い抗不安薬を併用することが多い。注射薬があるため、うつ病による不穏、焦燥に対して3時間程度で25mgを点滴静注することもある。

ノルトリプチリン(ノリトレン)
セロトニンよりもノルアドレナリンの再取り込みを強く抑制する。焦燥感を起こすことが少ない。有効治療量の幅が狭く処方が難しい。

アモキサピン (アモキサン)
第二世代のTCAであり、副作用、特に抗コリン作用が軽減されている。他のTCAよりも効果発現が早いといわれている。妄想性うつ病に効果があるといわれている

2009年06月07日

銃の発達によって装甲の薄い全身鎧は存在価値を失い

銃の発達によって装甲の薄い全身鎧は存在価値を失い、鎧は頭と胴体だけを守る物へと変化した、厚みは中世のものよりも厚くなり、遠距離からの小銃弾や銃剣に耐えられるようになった。このような鎧を身に着けた胸甲騎兵や装甲擲弾兵がエリート部隊として戦場に現れた。しかし、このような鎧も機関銃の登場によって価値を失っていく。

1914年の絹の防弾ベストは800米ドル程度で高価なベストだったが、黒色火薬を用いる発射間隔の長い銃弾を防ぐのには十分な性能であった。 1914年6月、サラエヴォ事件においてオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公はこのベストを着用していたにも拘らず、拳銃から発射された.32 ACP弾で頸部を撃たれ死亡した。この事件はまさに第一次世界大戦勃発の引き金となる。この大戦での塹壕戦では、それまでの皮製のヘルメットなどに代わる鉄兜や、一部では昔の胸甲騎兵のような鉄製のボディアーマーも用いられた。前者はその後一般化していったのに対し、後者は小銃弾に耐えられるように分厚くなっており、重量は30Kg前後にもなっていた。あまりに重く、行動を阻害してしまうために特殊用途を除き廃れていった。
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第二次世界大戦でもソビエト軍のSN-42ボディアーマーなど一部では鋼鉄製のボディアーマーが使用されていた。 1920年代の後半から1930年代の前半にかけてのアメリカの銃犯罪増加により、木綿が詰められた布製の廉価な防弾チョッキが用いられるようになる。この初期のベストは初速が約1000フィート/秒程度と小さい.22, .25, S&W .32 Long, S&W .32, .380 ACP, and .45 ACP のような拳銃弾を防ぐことが出来たが、合衆国のエージェントが組織化された犯罪者たちとそのベストに対抗するため.38スペシャルや.357マグナム弾が開発された。第二次世界大戦中には、爆撃機の乗員向けにナイロンを用いたより近代的な "flak jacket" が開発された。これは対空砲火や榴弾の破片だけは防ぐことができたが、.38スペシャルや.357マグナム弾は防ぐことができなかった。一方日本軍との戦いで多数の死傷者を出したアメリカ海兵隊は、戦後すぐにナイロン製ボディアーマーを採用し兵士に支給した。その結果、朝鮮戦争では死傷者が減少したことから、以後ベトナム戦争でもFRP板入りの改良型が支給され、陸軍でも歩兵の標準装備となっていった。

2009年04月24日

物質をごく低濃度染み

ホメオパシーでは、一般的に小さな砂糖粒に物質をごく低濃度染み込ませた、さまざまなレメディー(主なレメディーの一覧:英語)と呼ばれるものを服用する。レメディーの種類は2000種とも、もっと多いとも言われる。その中で、応用範囲が広く、常用されるのは100種くらいである。レメディーは、すでに現れている症状の治療目的に使われることもあるが、本格的な治療に当たっては、表面に表れた症状よりも、その病気を起こさせた根本の原因を治療しようとする。このために、ホメオパスと呼ばれるホメオパシー治療を専門に行う者の処方によりレメディーを服用する。ホメオパスになるためには数年の訓練を必要とし、そのための専門のスクールも存在する。

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レメディーは、基本的に体にとっての毒物を非常に少量含む。この毒物に対する体の抵抗を意図的に起こすことにより、自己治癒力を含む生命力を高め、肉体的、心理的、精神的な方向が本来あるべき方向へ修正されると言われる。これを「微量の法則」と呼ぶ。しかし、錠剤中、または水溶液中に、1分子たりとも有効成分であるとされる毒物が含まれないほど希釈されていることが多々あり、この点がホメオパシーが疑似科学または偽科学であるとする論のひとつの根拠となっている。この科学的疑問点については、後に詳述する。

ホメオパシーのレメディーが効くかどうかは、波長が合うか合わないか。だから本質的には必要な波の影響しか受けない。ホメオパシーのレメディーは必要な時にしか効かない。健康体の人にレメディーを処方してもなんの効果もない。ある病気の人に適切なレメディーを処方した時のみに効果がある。副作用のない最良の療法だと言われるゆえんである。

ホメオパスは人が健康なら体も健康という基本的な考えの元に働きかけ、心理的、感情的、精神的な状態に適合したレメディーを処方する。このため、ホメオパスとのセッション(面会)では、十分な時間(2時間程度の事が多い)をかけ、患者の心理的、精神的な状態や、成長の過程、とくに過去の大きな問題についてのインタビューが持たれる。そうして基本的な人のタイプを見て、現在の問題を判断しレメディーが処方される。

ホメオパシーの理論によれば、レメディーを与えることによって体の自然治癒力が引き出され、病毒を排出しようとする。このため一時的に症状が悪化することがあり、これを「好転反応」と呼んでいる。しかしホメオパシーを否定する立場からは、これは単に症状が悪化しているのを放置しているだけとして、しばしば批判の対象となる。

2009年04月22日

初期ゴシック建築

ロマネスク建築からゴシック建築への転換は、11世紀末期から12世紀早初期にかけて、イングランドとノルマンディー地方において行われた建築活動によってもたらされた。この地方では、すでに交差リブ・ヴォールトを分厚い構造壁に架ける試みが成されていたが、それ自体はロンバルディアやアルザス、プファルツのロマネスク建築においても同様に行われている。しかし、ここでは後にゴシック建築に共通する、あるいはそれに発展する要素のいくつか(すなわち、フライング・バットレスに発展する側廊の屋根裏に設けられた梁状の控壁とトリフォリウムに発展する二重シェル式壁(ミュール・エペ)など)が指摘されている。 これらの建築活動は後にイル=ド=フランスに引き継がれ、ゴシック建築を開花することになる。

イル=ド=フランスでのゴシック建築の発展
1130年、サン=ドニ修道院のシュジェール院長が、修道院付属聖堂(現在は大聖堂)の改築工事を始めた。現在、3つの広間を納めた前廊(西正面)と聖歌隊席を含めた一部が現存している。最初に多数の巡礼者のための大きな入り口が造られたが、これは円柱を束ねた支持柱に支えられた尖頭リブ・ヴォールトが空間を分節しており、これがノルマンディーの後期ロマネスクをゴシック建築に発展させたものになっている。1140年に着工し1144年に完成した内陣は、後の大改修のためあまり残っていないが、放射状の祭室と方形の祭室を有するシュヴェで、前廊と同じく革新的なものだったらしい。しかし、サン=ドニ修道院付属聖堂はあまりにも早熟した建築であり、12世紀後期になるまで比較的小規模な教会でひっそりと真似られるだけであった。

サン=ドニと同じ頃(1130年頃から1164年)に建設されたサンスの大聖堂は、周歩廊があるものの袖廊はなく、立面の強弱[1]というロマネス建築特有の構成を持っている。ただし、六分ヴォールトと3層にわかれた身廊立面はゴシック建築の要素を持っており、これは以後のゴシック建築に影響を及ぼした。
ダイビ ワサビン ナンピン ライトウイ ブーケ ラケット スーパ スキッダ プラネット 組曲 ナイロン リテラ オーベル シェアリ 白鳳支援 ムート ふるさと ジャパニ キチネッウ ヌビア てかばん クロア パート ラザーニャ ファイター ナポレオン ファタ ウコン パワー ブース ロビューム クーペ ラゴス ユグノー チラム トラサ あわせばお アカ パンフレット スパン バドミン ミレー フルー ミリーカー スカイプ ファン トリプ ハジ カソード シノニム


12世紀後半になると、ブルゴーニュとノルマンディーでは活発な建設活動が行われ、初期ゴシック建築の発展を促したが、これは個々の独自性やロマネスク建築の伝統を阻害するものではなかった。ノワイョンの大聖堂、サンリスのノートルダム大聖堂(16世紀の改築により当時の造形はあまり残っていない)、トゥルネーのノートルダム大聖堂、サン・ジェルメール・ド・フリなどは、それぞれロマネスク建築特有の構成を持つもの、あるいは逆にその伝統的形態を全く失ったものもある。

これら初期ゴシックの教会堂で創建当時のまま残っているものはひとつもないが、12世紀後期の状態を比較的よく保存しているのは、ノワイョン大聖堂、そしてランのノートルダム大聖堂、パリのノートルダム大聖堂である。

ノワイョン大聖堂は第一次世界大戦の後に大改装されたが、初期ゴシックの構成を最もよく残している。平面はロマネスク建築の伝統を色濃く残しているが、身廊立面には初期ゴシック建築の特徴である、アーケード、ギャラリー、トリフォリウム、クリアストーリという4層構造がみられる。この手法によって、壁面から重苦しい感じが取り払われ、ロマネスク建築とは異なった趣を見せている。

ランのノートルダム大聖堂は、ノワイョン大聖堂の影響を受けたもので、中央部にトゥール・ランテルヌ(光塔)を頂く点はロマネスク建築の影響を残しているものの、身廊部分は強弱を繰り返すパターンが全く見られなくなり、全ての柱が円柱に変わっている。袖廊には、ロマネスク建築では滅多に採用されなかった円形窓が採光用として用いられており、これが13世紀ゴシック建築の特色となる「ばら窓」の発展の第一段階となった。ラン大聖堂は初期ゴシック建築のまぎれもない傑作で、その形態は ロレーヌやラインラント地方に広がり、以後数十年に渡って影響を与え続け、後にシャルトルのノートルダム大聖堂に引き継がれことになる。

パリのノートルダム大聖堂は、しばしば初期ゴシック建築の最高傑作であるとされる。この建築物は高い背を持つため、構造の観点からベイ(柱間)が細分化されており、またクリアストーリ(高窓)が高い位置にあるため、下部構造によって採光が不足しているという欠点があった。しかし、平面は二重の側廊を持つという特殊な形状で、さらに、はじめから薄い壁を意識して設計されたらしく、上部のヴォールト構造を支えつつ周歩廊と側廊を跨ぐ控え壁を建設するためにフライング・バットレス(飛び梁)を採用したほか、クリアストーリ下のトリフォリウムにあたる位置に円形窓を配置するなど[2]、かなり野心的な設計が行われていた。後の改装によって証明できるものが失われてしまったため、当時のフライング・バットレスがどのように架けられていたかは必ずしも明確ではないが、この形態はすぐに決定的なものとなり、やがてパリ司教区ではこの聖堂に影響を受けた教会堂が建設された。

イル=ド=フランスとその周辺部の初期ゴシック建築は、シャンパーニュに広がった。シャロン=アン=シャンパーニュのノートルダム=アン=ヴォー聖堂とランスのサン・レミ大聖堂の後陣は、初期ゴシック建築の最終的な完成形態で、両者ともに後陣の立面は4層構造で、大きな開口を取ることによって鳥籠のような線的で軽快な構造となっている。シャンパーニュでは、他にソワッソン大聖堂の袖廊がこれと全く同じ構成を有している

2009年04月05日

感謝の典礼

ことばの典礼が終わると、ぶどう酒と水、「ホスチア」(聖体となる小麦粉を薄く焼いた食べ物)が祭壇へ準備される。(これを奉納という。)ここから始まる「感謝の典礼」はイエスの最後の晩餐に由来するものとされ、ミサの中心的部分である。次に司祭によって奉献文という祈りが唱えられ、会衆と共に『黙示録』に由来する賛美の祈り「聖なるかな(サンクトゥス)」が唱えられる。

次に聖体変化がおこなわれる。ここでは司祭が、ぶどう酒とホスチアをとって、イエスが最後の晩餐で唱えた言葉を繰り返す。これによってホスチアとぶどう酒がイエスの体と血に変わるというのが伝統的なカトリック教会の教義であった。神学用語では「実体変化」(Transsubstatiation)といわれ、これについては歴史上多くの議論がおこなわれてきた。

プロテスタント諸派では、宗教改革以降、ぶどう酒とホスチアが本当にイエスの体に変わるわけではなく、単なるシンボルにすぎないと考え、カトリック教会はトリエント公会議での議論によって改めてこれを否定、現代に至っている。ただ、現代のカトリック教会は中世のカトリック教会のように、決して小麦粉のホスチアが物理的・科学的な次元でイエスの肉体に変わるという意味で捉えているわけではなく、あくまで霊的・宗教的な意味・次元での変化として捉えていることに注意してほしい。

交わりの儀 [編集]
福音書の中でイエスが弟子たちに教えたとされる「主の祈り」がとなえられ、司祭の祈願につづいて「平和の挨拶」という参加者同士のあいさつがおこなわれる。さらに「神の小羊(アニュス・デイ)」の祈りが続き、司祭は聖体を裂いて一部をぶどう酒に浸す。司祭が聖体を食べ、ぶどう酒を飲む。聖体を食べ、ぶどう酒を飲むことを聖体拝領という。司祭は続いて聖体を会衆に配り、会衆も聖体拝領をおこなう。通常は聖体のみだが、場合によっては会衆もぶどう酒を飲むこともある。聖体拝領が終わると、司祭が拝領後の祈りを唱えて交わりの儀がおわる。この場合の「交わり」というのは、神と人との交わり、参加者同士が同じ聖体を受けて交わるという意味である。

閉祭の儀 [編集]
拝領後の祈りのあと、会衆への連絡などがおこなわれることがある。続いて司祭の祝福とミサからの派遣がおこなわれる。ミサの終わりにも「閉祭の歌」として聖歌が歌われることが多い。司祭と会衆との間に交わされる最後の交唱でミサは終わりなので、閉祭の歌そのものは義務ではない。

他宗派における表現 [編集]
ミサに相当する公祈祷を正教会では聖体礼儀(せいたいれいぎ)、聖公会では聖餐式という。英語圏の正教会ではこれも「ミサ」と呼ばれることがあるが、ギリシャ語・ロシア語圏および日本正教会では、正教会の奉神礼である聖体礼儀を指して「ミサ」と呼ぶ事は皆無である。

キリスト教以外の用例 [編集]
浪曲師・イエス玉川の独演会や、日本のヘヴィメタル・バンドの『聖飢魔II』のコンサートは「ミサ」と呼ばれる。

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2009年03月21日

1号御料車(初代)

1号御料車は、京阪間鉄道の開業式に備えて、1876年(明治9年)に、当時の汽車監察方ウォルター・スミスの指導の元、官設鉄道神戸工場で新製された。製造当時は「形式AJ」と称していたが、1911年に改称されたものである。

木造アーチ屋根の2軸車で、全長は7.34m、幅は2.16mである。側板は1枚張りのペンキ塗りで、中央部に菊の御紋章、その周囲に竜の模様を金粉で描いてある。
ソルジャー ルーツ りゅうき キャリ ニジェール ロック レード ハレルヤ こごた 茶色の小 バックシ タイヤ シホウチ コラン サイレ ジャーキー ハプテン ファースト ハプ くみん ケニア モンバ ギア ルーブル ニサバル 一致団 モザン パゴダ ツーソン カナイマ レツレツ ファイザー レジレソ フリートーク ひらたけ オペラ レソト チェダー レシオ サバト おとぎ ワッペ リップ エピス ハーフメイ モダニ マスツ アデス ディンイン すながわ

御座所は、当時の美術工芸の粋を尽くした造りで、長さは3.18m、中央部にソファが置かれ、四隅に小型円形の椅子が置かれている。ソファと反対側の窓辺には、テーブルが備えられている。なお、ソファが横を向いているのは、行幸の際の展望のためという理由の他、車両の幅が狭いために横向きの方が空間を広く使える、という理由に基づく。

御座所の両側には次室(侍従のいる部屋)が設けられており、そこに出入口が設けられている。厠(便所)は車端部に設けられ、和式で漆塗りの便器が備えられている。

2軸車であるうえ、技術の発達していない時代の製作であることもあって、防震には非常に苦労をしたようである。車体の土台、根太、台枠には防震ゴムが取付けられており、車輪の輪心も木製である。ブレーキは、作動時の騒音を排除するため、貫通管が引き通されているだけでブレーキ装置は取付けられていない。

本車は、1898年(明治31年)に3号御料車(初代)が落成するまで使用され、以後はボギー車の入ることのできない地方線区用に使用されたものと思われる。

1913年(大正2年に)廃車となり、大井工場に保管されたが、1936年(昭和11年)に鉄道博物館(現在の交通博物館)に移され展示された。1958年(昭和33年)に鉄道記念物に指定され、2003年(平成15年)には国の重要文化財に指定された。交通博物館閉館後は、さいたま市の鉄道博物館に移され、展示されている。


2009年03月06日

装甲艦(そうこうかん)

装甲艦(そうこうかん)は船舶の分類上木材の骨組みでできた船に鉄の装甲を施した軍艦を指す用語である。甲鉄艦とも言う。

19世紀
現在、記録に残る世界初の航洋装甲艦は1859年にフランス海軍が進水させた機走可能な装甲艦ラ・グロワールである。「グロワール」号は排水量5,635トン、163mm後装砲36門、舷側装甲120mmを持ち、速力13ノットを発揮する軍艦史上初の防御装甲を持ち、機関航行可能な軍艦=航洋装甲艦であった。この後すぐに1860年にイギリスの「ウォーリア」号が進水し、この流れに続けと列強各国は挙って機帆装甲艦を建造するようになった。ウォーリア号は排水量9,000トン、速力14.3ノット、20センチ砲38門を備えたが、「グロワール」よりも装甲帯の高さや範囲が不足しており、主力艦として問題があった。これは戦列艦から発達した「グロワール」とは違い、原型が機走フリゲイトであった「ウォーリア」が後に類別が一等航洋装甲帯巡洋艦にされた事からも判断できる通り、主力艦としての性能は持たされてなかったのである。

19世紀後半、ヨーロッパで装甲艦が建造されるようになるとロシア海軍など内海を活動範囲とする海軍で用いられ始め、初期には帆走装甲艦が主であったものの、アメリカ南北戦争で1861年に南軍が装甲艦「マナサス」を就役させて以降は蒸気機関を備える機帆走装甲艦が多数を占めるようになった。装甲艦同士の海戦は同じく南北戦争のハンプトンローズ海戦で行われた。この海戦は決着がつかず、後に装甲を打ち破るために巨砲を搭載する契機となった。

20世紀以降
戦列艦から戦艦への過渡期である20世紀初頭以降、全船体を鉄鋼で作る技術が確立されると次第に廃れていった。日露戦争の時点ではすでに第一線からは退いており、第一次世界大戦が始まるころにはほぼ姿を消している。しかし、一部の国では装甲艦に近代化改装を施し、装甲巡洋艦や海防戦艦の替わりとして再就役させる例が見られ、特にポルトガルの装甲艦「ヴァスコ・ダ・ガマ」は1935年まで現役であった。

装甲艦という種別は艦の建造方法を表すものであり、艦の用途に関するものではない。そのため動力も手漕ぎ、帆走や蒸気機関による機走などさまざまなものが用いられ、船の大きさも数百トン程度から一万トンに及ぶものまで、実に様々であった。

装甲艦の初陣
海戦史上、初めて装甲艦が参加した戦いとして、ヨーロッパの北海でデンマークとプロイセン・オーストリア連合艦隊が参加したヘルゴラント海戦が有名である。また、ヘルゴラント海戦より60日弱先にデンマークとプロイセンがバルト海で交戦したヤスムントの海戦で投入されたとする説もあり、今後の研究の結果によっては海戦史が一部書き換えられる可能性もある。

ジーメンス法
装甲艦を語る上で重要なポイントの一つは船体に用いる金属の質と、その製法である。船舶の歴史上、その素材は木材が主流であった。しかし建造される船舶が次第に大型化するにつれ木材では素材として強度が足りなくなり、価格の高騰が進むようになる。製鉄技術の発達はその問題の解決策となるものであり、薄く延ばした鋼鉄で建造する事で木材を使用するよりも丈夫で軽く、コストを安く押さえる事ができるようになるものであった。

製鉄技術の進歩に伴い小型の船舶には徐々に鉄の船体を用いられるようになったが、大型の船舶でこれを行う為にはさらに高い製鉄技術が必要とされる。イギリスの製鉄業では早期に平炉で高級鋼を生産するジーメンス法が採用されており、鋼鉄板を同強度の鉄板よりも薄く、軽く、高品質に製造する事が可能であった。この為、イギリスでは早くから大型船の鋼鉄化を実現することが出来た。こうした高い技術力を背景として海外から造船の受注が増加により、イギリスは1890年代までにヨーロッパの造船シェアで8割以上を占める造船大国として君臨する事となる。
ズンイン 紅葉遊 ミライン バックラ バンカメ コート トケーオー プチポワ スエード シート バーレル たいはく クール グワナ 江戸一 ひだまり チーク プラトーン ワンウェイ チャンス ナブスター フウトウ バリカ シェイク プロテ プロダク ルイジ ティブ 紫式部 まさかき ハンド はわい ネクタイ シタール ギガビ トラン モニタリ スキニー ネオナチ ポット ソイド スター 美人薄命 ググイウ リアリ サーチイスノ シンハ はさま セッション ナック

こうした進歩の結実の一つが1843年に完成した蒸気船グレート・ブリテン号(SS Great Britain)である。グレート・ブリテン号は排水量3675トン、全長98メートル、幅15.4メートルで、当時世界最大の鉄製の客船であった。また、鋼鉄のみで建造された貨物船も1881年に進水されたイギリス製のセルビア号である。装甲艦は、こうした高い製鉄技術や造船設計の進歩を背景とし、時代の要求に伴って産まれてきたのである。

日本史における装甲艦
日本では織田信長が1576年(天正4年)の7月13日の第一次木津川口の戦いの際、毛利輝元麾下の水軍に焙烙火矢攻撃を受けた事を戦訓として伊勢の大名九鬼嘉隆に新しく建造をさせた鉄甲船という木造の船体の外側に鉄板を貼り付けた大型の軍艦が初の装甲船の例として挙げられ、後の戦闘では焙烙火矢を克服して勝利を得ている。ただし、鉄甲船の装甲はあくまで防火のためのものであり、防弾を目的とした装甲とは意味が違うものである。そして後世の装甲艦とは技術的なつながりは全く存在しない。

鉄甲船を装甲艦の元祖とみなす立場からは、第二次木津川口の戦いで投入されたのが装甲艦の初陣であると主張される事もあるが、実際にはこの戦いにおいて鉄甲船が活躍した事自体にも疑問を呈する意見も多い。

2009年02月14日

ほしフル

主人公である月舘陽は従姉である楠原琴音に勉強を習い、進学校でもある私立星藤学園に合格する事ができた。そして、合格した時に琴音に告白すると決めていた陽は、その日のうちに告白。だが、それは自分に対しての憧れであって、恋心ではないと言われて玉砕する事になる。
ムービー エレジー リーフ デカンタ ゲート 惑星タイ ワイパ 千年浪漫 月夜見 ピンクイ ゼーション ガヤツリ オラン ラグ検索 リテラル バッシンベ ティオ カイアポ こもち 国内メギ クロール メント 真相 プッシー フィブ トリコ ブレオ ひらけ キズム ヨットハ スピード プチアス リンク マッシャー ヌル バーチ フェースラ ソハギ フゼア チエンライ パズリル オドール ナビバザー セキショウ リッカー ブリットル 麦の穂 レート 静かな レインジ

それから数ヶ月が経ち、季節が夏になっていた。陽もその頃には落ち込む事は無かったが、友人である海道惑の誘いから天文同好会に入り、琴音と接する機会が多いものの何事も無い平穏な日々を送っていた。夏休みに入り、惑は琴音と付き合いたいから手伝ってくれと言われる陽。気分は複雑だったが、それを引き受けてしまう。だが、陽の周りでは様々な片思いの事情を知ってしまう。そして、陽も色々な女の子と付き合うことが多くなり、陽の心も大きく揺れ動いていく……。

月舘 陽(つきだて あきら)
誕生日:12月13日(射手座) 血液型:B型
本作の主人公。私立星藤学園1年生。学園の合格発表の日に従姉である琴音に告白しているが玉砕している。琴音の事を諦めたものの、惑に琴音と付き合う手伝いをすることになる。なお、振られたことを知っているのは張本人である琴音と、その次の日にサイクリングに付き合わせた水季だけである。
現在は両親と共に3人暮らし。母親の方はよくしゃべるが、父親の方はしゃべる事はない。学園では惑に誘われて天文同好会に入部している。それでも家庭教師だったときに休憩中に話していた琴音の星の話による、星に関することは意外によく知っている。現在、生徒会で飼っている鶏の餌やりや掃除などをしている。また、半分に割れた石のペンダントを大事に身に付けているが、何故大事にしていているのかなどは全く覚えていない。
性格は至って真面目で友人に対してよく気を使う場面が多い。そして、惑と水季が喧嘩をするのを止めたり、変わっている人間が多いせいかツッコミを入れる場面が多い。また、相手との約束を守ることに固執しており、自分ができる約束ならば、どんなに無理してでも実行しようとする。
まだ幼い頃に瑠歌と共に遊んでいた事があり、互いに好きあっていた。また、ペンダントも元々瑠歌の所有物だったが、割れてしまったため半分ずつ持つ事になる。だが、瑠歌の両親の都合で引っ越す事になり、駆け落ちみたいな事をすることを瑠歌と約束した。だが、待ち合わせ場所に向かう時に、誰かに追われるような感覚から怖くなり逃げ出してしまう。その後、高熱や精神的な病により、瑠歌と一緒に遊んだ事やペンダントのことなどを全て忘れてしまう(なお、両親は彼が思い出せないならそっとしておこうという考えから話していない)。そのため、瑠歌との約束を守れなかったことがトラウマとなってしまい、彼の約束に固執することになる。

楠原 琴音(くすはら ことね)
誕生日:10月7日(天秤座) B 86(C) / W 57 / H 83 血液型:A型
陽の従姉。私立星藤学園3年生。陽が星藤学園に入る前まで家庭教師をしていた事などから、陽にとって憧れの人物。合格発表のときに陽に告白されたが付き合えないと返事をしている。
学園では生徒会長を務め、天文同好会に所属している。成績もよく、周りからも人気があるなど完璧に見えるが、運動が苦手という欠点がある。星を見る事が好きで、天文同好会も彼女が設立している。また、天文台によく足を運ぶため、台長とも顔なじみになっている。将来の夢も天文台の台長になる事を目指している。だが、天文学については専門知識はあまり無く、大学で勉強しようと考えている。現在は大学進学に向けて勉強をしている。生徒会室に炊飯器やホットプレートがあるのも、彼女が料理をするために持ってきたものである。
性格は明るく朗らかで包容力があり、色々な人間に慕われている。また、無類の卵好きで、全オカズを卵料理にするだけではなく、学園で飼っている鶏から取れる卵を使って卵かけご飯にしている。また、卵を扱う時の態度はハイテンションになり、周りの人間も少し引く事もある。陽の事を「あっちゃん」と呼び、弟のように接している。そのため、陽を子ども扱いすることも多い。
元々は陽のことが好きだったのだが、それにより自分自身の心の闇と葛藤することになり、それが原因で陽の告白を断った。
なお星を見るのが好きになったきっかけも陽にある。
高塚 水季(たかつか みずき)
誕生日:7月4日(蟹座) B 82(B) / W 57 / H 80 血液型:B型
陽の進学する前からの友人。私立星藤学園1年生。陽のクラスメートでありラクロス部の期待の新人。進学する前から陽と惑と共に遊びに行く事が多いため、陽も彼女と一緒にいることが多い。
進学する前からラクロスを続けており、学園に入ってからもラクロス部に所属している。背番号は12番。陽(ひなた)とは友人で、ラクロス以外でもよく行動している。動きがすばやく、攻撃のポジションにいる。運動する事が好きで、体力は陽や惑を上回っている。惑から女扱いされておらず、惑が軽口をたたいては彼女が暴力を振るうというのが日常茶飯事である。また、他の人間より胸が小さいことを気にしている。陽の言う事には素直に聞くことが多く、陽に少し依存している。勉強は壊滅的で、宿題も全部写している。また、成績が悪くても補習すればいいと軽く考えている傾向がある。陽(ひなた)が惑のことを好きだと知っているため、付き合えるように手を尽くそうとしている。趣味はサイクリングで、入学祝いにMTBを買ってもらっている。星藤学園に入る前は陽や惑を付き合せてよくサイクリングに行っていたが、今はラクロス部などで二人と時間が合わず行っていない。
性格はかなりハイテンションだが、少々子供っぽいところが多い。そのため、明らかに常識はずれな行動を起こしては、陽によく注意されている。また、陽に恋心を抱いているが、本人はそれが恋だと認識していない。なお、この学園に入った理由はラクロス部があるからではなく、陽が志望校を星藤学園にしたから。そのため、必死に勉強して入ったらしい。なお、浮き沈みが激しく、ラクロスの試合でも陽がいれば一生懸命にやるが、陽がいないとやる気が出ずに本気を出せない。また、進学前は陽のことを名前で呼んでいたが、進学直前に「あっちゃん」と呼ぶようになる。
星川 瑠歌(ほしかわ るか)
誕生日:10月18日(天秤座) B 75(A) / W 52 / H 75 血液型:O型
二学期の初めにヘルシンキから陽のクラスに転校してきた女の子。ぎっくり腰で入院している司祭の代理としてやって来た。本来は両親が司祭代行を務めるのだが、彼女一人が先に来ている。
現在、教会の管理を任されているため、たった一人で切り盛りをしている。そのため、学園でも何も部活には入っていない。生活もあまり豊かではなく、食べ物なども安いものを手に入れるようにし、フリーマーケットに出ていたりもしている。髪は金色のツインテールで、瞳の色が緑色と紫色になっているが、れっきとした日本人(なお、彼女の両親は普通に黒髪らしい)。
性格は気が強く勝気、学園でもあまり人とは仲良くせずに一人でいることが多い。神の信仰心が強く、礼拝などを欠かさずに行っている。陽ともあまり親しくしない。また、約束などを激しく嫌っている。
幼い頃に陽とよく遊んでいたが、引越しをすることになり、陽と駆け落ちしようと約束する。だが、陽は待ち合わせ場所に来なかったため、陽に裏切りられたと感じ、以後人と接する事を嫌うようになる。陽と分かち合ったペンダントも大事に持っているが、彼女がもう人を信用しないための誓いの証としている。なお、陽が昔遊んだ相手だと理解してからは、周りの人がわかるほど敵意をむき出しになる。しかし陽の本当の気持ちを知ると、それまでと態度が180度変わり周囲もビックリするほどのデレっぷりをみせる。
双葉 陽(ふたば ひなた)
誕生日:1月15日(山羊座) B 88(D) / W 60 / H 85 血液型:AB型
陽のクラスメート。私立星藤学園1年生。
水季と同じくラクロス部に所属しており、ディフェンダーを務めている。背番号は13番。陽や惑より背が高く、スタイルもいい。惑に思いを寄せており、水季が彼女と惑を付き合わせようと努力している。意外にカラオケ好きで、普段の彼女からは考えられないようなメタルなどの熱い曲を選曲する。なお、カラオケの際本を見ずに番号を入れることができるだけではなく、最高で40時間歌い続けたことがあると語っている。
性格は口数が少ないが、周りの人間よりも大人びており面倒見もいい。陽と同じく水季の行き過ぎた行為を止めることが多い。また、意外にも融通が利かないこともある。
鈴木 流史(すずき りゅみ)
誕生日:3月26日(牡羊座) B 90(E) / W 62 / H 88 血液型:A型
陽の先輩。私立星藤学園2年生で、眼鏡をかけた少女。
天文同好会に所属しているだけではなく生徒会の会計も務めている。なお、天文同好会でも会計を務めている。なお、安売りや割引などにうるさいだけではなく、自分自身の買い物帳を付けている。天に片思いしており、琴音といい関係になっている天のことをいつも気にかけている。ホロスコープを覚えている。
性格は真面目で大人し目だが、陽が困った時などに相談に乗ったりと面倒見はいい。また、真面目な性格から琴音や天の行き過ぎた行動のストッパーもしている。怒った時は笑顔による圧力をかけるか、言葉を訛らせて怒鳴ったりする。陽曰く「怒らせたら本当に怖い」らしい。

サブキャラクター
海道 惑(かいどう わく)
誕生日:5月16日(牡牛座) 血液型:O型
陽の友人。私立星藤学園1年生で陽のクラスメート。水季よりも長い付き合いで、昼飯なども一緒にいることが多い。琴音に惚れており、陽に自分の恋路を手伝って欲しいと言ってくる。
琴音がいると言う理由から天文同好会に入部しているが、星のことを全く勉強していない。また、勉強も全然できず、スポーツもやっていないため体力が無い。趣味はナンパで、よく女の子に声をかけているが、成功する事はまず無い。また、身長が低い事を気にしている。なお、勉強ができないのに陽が志望校を上げたため、必死に勉強をして合格しているため、特別頭が悪いわけではない。
性格はお調子者で女の子好き。女の子に自分の考えを押し付けるだけではなく、自分から告白されるのではなく相手が告白されることを望んでいる。さらに、自分のいい方向に解釈する事も多く、陽や水季を呆れさせる事も多い。だが、陽の事を気にかけることもあり、けして悪い人間ではない。水季と口喧嘩が多く、大抵は自業自得だが、水季の理不尽な言動で殴られることも有る。また、彼も水季同様に陽に依存している所がある。
澪木 天(みおぎ たかし)
誕生日:8月30日(乙女座) 血液型:B型
天文同好会の部長。私立星藤学園3年生。
生徒会で副会長を務めているだけではなく、成績優秀、スポーツ万能と完璧な人間。また、天文マニアであり、家に何本も望遠鏡があるだけではなく、天文学の専門知識もあり、将来は宇宙飛行士になろうとしている。生徒会に入ったのも、内申点を上げる片手間になると言う考えから。
性格は冷静沈着。だが、かなり浮世離れている部分があり、無謀な事をしては流史に止められている。天文学について話すときはかなり熱弁になり、琴音でも聞き流す程である。また、かなりマイペースな人間で、海に行ってもみんなと遊ばずに本を読んでいる場面もある。ちなみにジェットコースターは大の苦手

2009年01月28日

薩軍の本拠地を衝くために旧藩の国父

まだ戦争の帰趨が覚束なかった2月末、政府は鹿児島の人心を収攬し、薩軍の本拠地を衝くために旧藩の国父であった島津久光に議官柳原前光を勅使として派遣した。しかし、久光は薩軍に荷担することはしないが、旧主の恩顧を以てしても効がないとした。よって勅使らは中原らを出獄させ、弾薬製作所・砲台を破壊し、火薬・弾薬を没収して引き揚げた。

熊本城の包囲が解けた4月23日、政府は参軍川村純義海軍中将を総司令官として別働第一旅団(旅団長高島鞆之助)・別働第三旅団2箇大隊(田辺良顕中佐)を主力とする陸海軍混成軍を鹿児島に派遣した。しかし、27日に上陸して本営を設けた川村参軍は情勢を判断して増援を求めた。そこで政府は新たに第四旅団(曾我祐準少将)・別働第五旅団(大山巌少将)1箇大隊を派遣した。川村参軍が最初に着手したのは市民生活の安定で、仁礼景通大佐を仮の県令として警察業務を代行させ、逃散してしまった県官の逮捕・査明等をおこなわせた。5月3日になると、新県令岩村通俊が赴任して来、西郷に告諭書を送った。

城山・重富・紫原の戦い
薩軍では、4月28日の江代の軍議の後、中島健彦を振武隊など11箇中隊の指揮長として鹿児島方面に派遣した。監軍貴島清を伴って出発した中島健彦は途中で別府晋介・桂久武らと会して5月1日に軍議を開き、別府晋介が横川に主張本営を置いて鹿児島方面を指揮し、前線部隊の中島らはさらに進んで山田郷から鹿児島に突入することとなった。5月5日には遅れて到着した相良を指揮長とする行進隊など10箇中隊が振武隊と合流した。

薩軍は当初、山田街道から城山北方に出、背面から官軍を攻撃しようとしたが、5月3日は雨に阻まれ、4日は激しい抵抗にあって冷水へ後退した。6日には西方に迂回して甲突川を越えて急襲しようとしたが、渡河中に猛烈な射撃を受けて大敗し、伊敷へ後退した。この頃、薩軍は各郷から新兵を募集し、新振武隊15箇中隊を編成した。また上町商人からなる振武附属隊も作られた。

5月11日から13日にかけては、催馬楽山の薩軍と海軍軍艦龍驤との間で大規模な砲撃戦がおこなわれ、14日から17日にかけては、官軍によって薩軍の硝石製造所・糧秣倉庫等が焼却された。薩軍に包囲されて市街の一画を占領している状態の別働第一旅団は24日、武村を攻撃したが敗退した。29日、第四旅団が薩軍の不意を衝いて花倉山と鳥越坂から突入したが、これも撃退された。

5月22日、川村参軍は第四旅団1箇大隊半・別働第三旅団2箇中隊を右翼、別働第一旅団2箇大隊半を左翼として軍艦4隻と小舟に分乗させ、艦砲で援護しながら重富に上陸させて薩軍の後方を攻撃させた。また、軍艦龍驤を加治木沖に回航して薩軍の増援を阻止させた。左右翼隊の健闘でさしもの薩軍も遂に重富から撃退され、次いで磯付近で包囲攻撃を受け、北方に敗走した。こうして官軍は重富を確保した。これに対し、23日、中島・貴島・相良は官軍に反撃し、行進隊8箇中隊と奇兵隊2箇中隊で雀宮・桂山を襲撃し、多数の銃器・弾薬を獲得した。

5月24日、別働第一旅団と別働第三旅団は大挙攻勢に出、涙橋付近で交戦する一方、軍艦に分乗した兵が背後を衝き、薩軍を敗走させた。逆襲した薩軍と壮烈な白兵戦が展開されたが、夕方、暴風雨になり、これに乗じた官軍の猛攻に弾薬乏しくなった薩軍は耐えきれず、吉野に退却した。この紫原(むらさきばる)方面の戦闘は鹿児島方面でおこなわれた最大の激戦で、官軍211名、薩軍66名の死傷者を出した。翌25日、第四旅団は下田街道を南下し、坂元・催馬楽・桂山から別府隊・振武隊十番中隊の背後を攻撃し、吉野へ追い落とした。26日には同旅団が鳥越道と桂山の二方から前進攻撃したところ、薩軍は抵抗することなく川上地方へ退却した。

官軍主力の鹿児島連絡
大口南部の薩軍を退けた川路少将率いる別働第三旅団は6月23日、宮之城に入り川内川の対岸および下流の薩軍を攻撃した。一斉突撃を受けた薩軍は激戦の末、遂に鹿児島街道に向かって退却した。別働第三旅団の部隊は翌24日には催馬楽に至り、次々に薩軍の堡塁を落として、夕方には悉く鹿児島に入り、鹿児島周辺の薩軍を撃退した。こうして官軍主力と鹿児島上陸軍の連絡がついた。

退却した薩軍は都城に集結していると予測した川村参軍は6月29日、別働第一旅団を海上から垂水・高須へ、第四旅団を吉田・蒲生へ、別働第三旅団を岡原・比志島経由で蒲生へ進め、都城を両面攻撃することとした。また海軍には重富沖から援護させ、鹿児島には第四旅団の1箇大隊を残した。

都城方面の戦い
人吉方面撤退後の6月12日 、村田新八は都城に入り、人吉・鹿児島方面から退却してきた薩軍諸隊を集め、都城へ進撃する官軍に対する防備を固めた。薩軍の配置は戦闘によって大幅に入れ替わりがあるので確定しがたいが、北からほぼ以下のようになっていた。
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最右翼(霧島山・高千穂北麓)
小林・高原方面 ─ 破竹隊など
右翼(霧島山・高千穂南麓)
財部・庄内方面 ─ 破竹隊など
中央
敷根・福山・清水方面 ─ 振武隊・奇兵隊など
左翼
岩川・末吉・大崎・百引方面 ─ 雷撃隊・行進隊など
対して、都城に攻め入ろうとする官軍の配置は北からほぼ以下のようになっていた。

左翼
小林・飯野 ─ 別働第二旅団一部・第二旅団
中央
庄内方面 ─ 第三旅団(国分本営)
庄内・福山の中間 ─ 別働第三旅団(国分本営)
福山方面 ─ 第四旅団(敷根本営)
右翼
岩川・末吉方面 ─ 別働第一旅団(高隈本営)

小林・高原方面
6月19日、河野主一郎は破竹隊を率いて別働第二旅団が守る飯野を21日まで猛撃して奪取をはかったが、官軍は善戦し、陥とすことは出来なかった。逆に横川から転進してきた第二旅団が7月14日、小林から高原を攻撃し高原を占領した。高原奪還を目指す薩軍は7月17日、堀与八郎を全軍指揮長とし雷撃隊・鵬翼隊・破竹隊などの9中隊を正面・左右翼・霞権現攻撃軍(鵬翼三番隊)の4つに分け、深夜に植松を発ち、正面・左右翼軍は暁霧に乗じて高原の官軍を奇襲し、あと一歩のところで奪還するところであったが、官軍の増援と弾薬の不足により兵を引き揚げた。一方、霞権現へ向かった鵬翼三番隊は奇襲に成功し、銃器・弾薬等の軍需品を得た。この戦い以降、官軍は警戒を強め、7月17日に堡塁や竹柵を築いて薩軍の奇襲に備えた。7月21日薩軍は再び高原を攻撃するため官軍を攻撃するが、官軍の強固な守備と援隊の投入により、高原奪還は果たせず、庄内へと退却した。

踊・大窪・財部方面
横川方面が官軍に制圧されてしまったため、7月1日、薩軍の雷撃隊六・八・十・十三番中隊、干城隊一・三・五・七・九番中隊、正義隊四番中隊等の諸隊は踊に退却し、陣をこの地に敷いた。官軍は7月6日、国分に進入して背後より踊の薩軍を攻撃し、薩軍は大窪に退却した。薩軍は襲山の桂坂・妻屋坂を守備すべく、干城隊七番中隊などを向かわせ、その他の諸隊に築塁の準備をさせたが、踊街道から官軍が進出しているとの情報を受け、正義隊四番・雷撃隊十三番・干城隊一番隊・雷撃隊八番隊がこれを防いだ。また、官軍は襲山街道からも攻めてきたため、干城隊三・七番隊、雷撃隊六番隊がこれを防いだが、決着はつかず両軍は兵を退いた。ここで官軍は第二旅団全軍をもって大窪の薩軍を攻めた。

7月12日、辺見は赤坂の官軍の牙城を攻撃するため、雷撃隊を率いて財部の大河内に進撃。この地は左右に山があり、中央に広野が広がっているという地形となっており、官軍はその地形に沿う形で陣を敷いていたため、薩軍は左右翼に分かれて山道から官軍を奇襲し優位に立ったが、雨が降り進退の自由を失い、あと一歩のところで兵を引き揚げた。

7月17日、辺見は奇兵隊を率いてきた別府九郎と本営の伝令使としてやってきた河野主一郎らと合流し、荒磯野の官軍を攻撃するため兵を本道・左右翼に分け、夜明けに高野を出発した。辺見らの諸隊は官軍に対し善戦するが、河野が本営に帰還するよう命じられたことによる右翼の指揮官の不在と官軍の援軍の参戦、弾薬の不足により、雷撃隊は高野へ、奇兵隊は庄内へとそれぞれ退却した。7月19日には都城危急の知らせにより高野の雷撃隊は庄内へ移動し守りを固めた。また辺見は7月23日の岩川攻撃作戦のために雷撃六番隊、干城七番を率いて岩川へ向かった。

敷根・福山・岩川方面
第三旅団が7月10日、敷根・清水の両方面から永迫に進撃し、行進隊十二番中隊を攻撃したので、行進隊は通山へ退却した。一方、敷根・上段を守備していた行進隊八番中隊は、官軍の攻撃を受け、福原山へと退却した。行進隊八・十二番中隊は上段を奪回しようと官軍を攻撃するが、破ることができず、通山へ退却した。7月15日早朝、行進隊・奇兵隊は嘉例川街道を攻撃したが、官軍の守りは堅く、加治木隊指揮長越山休蔵が重傷を受けたため、攻撃を中止し通山へ退却した。

7月23日、官軍が岩川に進出したとの報を受け、高野から雷撃隊八・七番隊・干城隊七番隊を率いてきた辺見と合流し、辺見・相良を指揮長として岩川へ進撃し、官軍と交戦した。16時間にも及ぶ砲撃・銃撃戦であったが、結局、薩軍は官軍を破れず、末吉へと退却した。

恒吉・百引・大崎方面
7月7日、振武隊大隊長中島は国分より恒吉に到着した。このとき官軍は百引・市成に進駐していたので、この方面への攻撃を決定した。振武隊は夜に恒吉を出発し、8日に百引に到着した。ここで三方面から官軍を抜刀戦術で襲撃した。不意を突かれた官軍は二川・高隈方面まで敗走した。この戦いで薩軍の死傷者が8名ほどであったのに対し、官軍の死傷者は95名ほどで、そのうえ大砲2門・小銃48挺・弾薬など多数の軍需品を奪われた。

一方、越山・別府九郎ら率いる市成口牽制の奇兵隊・振武隊・加治木隊も8日に市成に到着した。越山らが兵を三方面に分けて進撃したのに対し、官軍は阜上からこれを砲撃し、戦闘が開始された。戦闘は激しいものとなり、夕方、官軍は民家に火を放ち、二川に退却した。薩軍も本営の指令で兵を恒吉に引き揚げ、振武十一番隊を編隊し直し、奇兵隊一・二番中隊とした。

大崎に屯集しているとの情報を得た先発の奇兵隊は7月11日、官軍を奇襲したが、二番隊長が戦死するほどの苦戦をした。そこで、勝敗が決しないうちに蓬原・井俣村に退却した。一方、後発の振武隊は進路を誤り、荒佐の官軍と遭遇し、半日に渡り交戦したが、結局大崎付近まで退却した。7月12日、蓬原・井俣村の奇兵隊は大崎に進撃したが、荒佐野の官軍はこの動きを察知し、大崎にて両軍が激突した。当初、戦況は薩軍にとって不利な方向に傾いていたが、大崎の振武隊と合流し、官軍に快勝した。しかし、末吉方面が危急の状態に陥ったので、この夜、村田新八は各隊に引き揚げて末吉に赴くように指示した。

官軍の都城進撃
都城への全面攻撃を始める前の7月21日、山県参軍・川村参軍・大山少将・三浦少将らは軍議して、以下のように進撃部署を定めた。

田野口・猪子石越・庄内方面 ─ 第三旅団
福山・通山方面 ─ 第四旅団
市成・岩川・末吉方面 ─ 別働第一旅団
正部谷・財部方面 ─ 別働第二旅団
霧島山麓方面 ─ 第二旅団の一部

都城方面
別働第三旅団は7月24日、粟谷から財部に進撃し、指揮長不在の薩軍を攻撃して財部を占領した。続いて、退いた薩軍を追って、右翼を田野口・猪子石越から三木南・堤通に進め、本体・左翼を高野村街道から進めさせ、平原村で河野主一郎部隊の守備を突破し、庄内を占領した。薩軍が都城に退却したため、別働第三旅団はさらにこれを追撃して都城に侵入した。第四旅団は福山と都城街道・陣ヶ岳との二方面から通山を攻撃した。中島は振武隊を率いてこれを防ぎ、善戦したが、すでに都城入りしていた別働第三旅団により退路を阻まれて大打撃を受けた。その間に第四旅団は都城に入ることができた。別働第一旅団は岩川から末吉の雷撃隊(辺見)・行進隊(相良)と交戦し薩軍を敗走させ、都城に入った。

7月24日、要所である庄内方面・財部方面が官軍に占領された結果、都城の各方面で薩軍は総崩れとなり、この日官軍は都城を完全に占領した。これ以降、薩軍は官軍へ投降する将兵が相次ぐものの、活路を宮崎へと見出していこうとした。しかし、この守備に適した都城という拠点を官軍に奪取された時点で、戦局の逆転はほぼ絶望的となってしまった。

豊後・美々津・延岡方面の戦い
豊後・日向方面は4月末から5月末にかけて、野村忍介が率いる奇兵隊とそれを後方から指揮・支援する池上とその部隊の働きで薩軍の支配下におかれたが、官軍の6月からの本格的反撃で徐々に劣勢に追い込まれていった。薩軍は都城の陥落後、宮崎の戦い、美々津の戦、延岡の戦いと相次いで敗れて北走し、8月末には延岡北方の長井村に窮することとなった。

三田井・豊後・日向方面
4月30日、西郷から豊後方面突出の命を受けた奇兵隊指揮長野村忍介は、椎葉山を越え、一部を富高新町(細島西方)の守備及び細島方面の警備に任じ、主力は延岡に進出した。これを後援するために5月4日に三田井方面に派遣された池上指揮部隊約1000名は、薩軍の本拠地人吉と延岡の交通路にあたる三田井の警備に部隊の一部を当て、主力は東進して延岡に進出した。延岡に進出した薩軍はここに出張本営を設け、弾薬製造、募兵、物資調達をし、奇兵隊1箇中隊を宮崎に、奇兵隊2中隊を美々津に、奇兵隊3中隊を細島に、奇兵隊3箇中隊を延岡に配置して、政府軍がまだ進出していない日向を支配下に置いた。

以後、池上は延岡から豊後方面に進出した野村忍介を後援・指揮するとともに三田井方面の指揮をも執った。5月14日、高城率いる正義隊など6箇中隊は延岡街道鏡山の熊本鎮台警備隊を襲撃し、追撃して馬見原、川口に進出した。熊本鎮台部隊が5月22日に馬見原から竹田方面に転進すると、この方面を担任することになった第一旅団は5月25日、折原を攻撃し、遂に三田井を占領した。しかし、三田井を占領された薩軍は6月1日、日影川の線を占領し、官軍進撃を阻止した。こうして苦戦・後退しながらも、薩軍は8月まで延岡方面への官軍の進出を阻止しつづけた。